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見 所
概要・説明
関連ホームページの有無

写 真
(写真にマウスを当てると写真の説明が出ます)



磐井神社

 『鈴が森』の地名発祥の基となった鈴石や烏石、磐
井の井戸などで知られている神社で、別名を『鈴が森
八幡宮』と呼ばれていました。創建の時期は定かで
はないのですが延喜式(延喜5年に醍醐天皇の勅に
より編集された制度集)の神名帳(神社の一覧)に
「荏原郡二座 小並磐井神社」と名が記載されている
ということから、延喜年間(901年−921年)にはす
でに存在していたことは確からしい。また、かつては
東京湾の浜までがこの神社の境内で、沖合に鳥居
があったという記録もあると言われています。
 神社の井戸の水は、万病に効く薬水とされ、心正
しい人には清水だが、邪心のある人には塩水となる
そうである。海がすぐそばだから、時には塩水が混じ
ったとしてもおかしくはないと思われます。もとは神社
境内にあったのですが、今は第一京浜国道の拡幅
で境内の一部が削り取られ、今は境内から外れて歩
道の端に取り残されていて、お正月の箱根駅伝や東
京国際女子マラソンなどの時にはその前を選手たち
が駆け抜けて行きます。その他にも、松下烏石が烏
石を奉納した由来を刻んだ烏石碑や、文人たちが使
用済みの筆を埋めた供養塚(何れも大田区の文化
財)、東海七福神の一つの笠島弁財天、樹齢は分
からないのですが、幹回りが数メートルはあると思わ
れる イチョウの古木などが境内に残っています。これ
らは大田区の文化財に指定されています。
JR京浜東北線大森駅下車徒歩15分および、京浜
急行線大森海岸駅下車徒歩10分で参拝できます。

磐井の井戸
磐井の井戸案内
磐井神社


旧東海道 (美原通り)

 第一京浜国道と並行して、北品川から旧東海道が
ほぼ往時の道幅のままで残っており、ここは大田区
に残る旧東海道の一部分で、京浜急行平和島駅そ
ばに有り”美原(ミハラ)通り”と呼ばれています。
この通りには古くから伝統のある海苔問屋が残って
います。大正七年(1918年)に旧東海道が第一京
浜国道として拡幅されたのですが、このとき繁華街
だった大田区大森本町二丁目から大森東一丁目付
近を避けて別ルートが新設されたために、旧道として
残ることになったそうです。”美原(ミハラ)通り”の名
は、北原、中原、南原の三つの通りを合わせた「三
原」に因んだものです。

ミハラ通り商店街入り口
ミハラ通り商店街

大森貝塚

 モースの硬度計で有名なエドワード・シルベスター・
モース博士が、明治10年(1877年)横浜(現在桜
木町)より新橋(現在汐留跡地)へ向かう列車の車窓
より貝層を発見した貝塚で、日本考古学史上最初の
遺跡です。明治12年(1879年)に刊行された『大森
介墟古物篇』に発掘の経過や成果が載せられました。
遺跡はJRで分断をされており、大田区山王1丁目か
ら品川区大井6丁目にまたがり、碑も両区に建てられ
ており紛らわしいのですが、大田区の碑は博士のも
とで当時発掘に参加をした佐々木忠次郎氏をはじめ
とする21名が発起人となり昭和5年に建てられたも
ので、JR京浜東北線や東海道線の車窓から『大森
貝墟』の文字が見られます。
 この地より発掘された遺物は、主として加曽利B式
に属するものが多く、土器,土偶,土版,石斧,石皿,
骨格器など多様に渡ります。博士は、土器にヒモ状
の文様が有るところから『コードマークの土器』と名付
けられました。これが縄文式土器の名前の起こりにも
なっています。これらの出土品は今現在全て東大理
学部人類学教室に保管をされています。
 品川区の方では、10年ほど前に遺跡一帯から民
家などを取り除き、『品川区立大森貝塚遺跡庭園』と
なり、JRの車窓からは庭園の一部と、『大森貝塚』と
刻まれた記念碑 を見ることができます。
庭園内にはモース博士像などの他に、貝殻が堆積
している様子を実際に目で見ることができる貝層標
本がそのままの状態で保存されています。
大田区側の碑へは、大森駅山王北口を出て大井町
方面へ歩いて3分程度NTT横から入って行けます。
『品川区立大森貝塚遺跡庭園』へは、大田区側の碑
の入り口を左手に見ながら徒歩10分ほど大井町方
面へ行くと、東急バスの折り返し場に着きます。そこ
の隣に有ります。

大森貝塚(墟)
品川区立大森貝塚遺跡庭園
クリックすると大きく見られます

鷲 神 社
(おおとりじんじゃ)

 祭神は日本武尊で、別当は密巌院です。江戸時代
から小祠であったらしく、由緒沿革も定かにはなって
いません。
 近来年末の酉の市は非常に賑わい、大森の名物
の一つに数えられています。境内に建てられた鉄筋
の鷲会館(おおとりかいかん)は、結婚式や各種の
会合などに広く利用されています。
 参道にある庚申塚は、典型的な江戸時代の様式を
もっているのですが、記年がどこにも無いのが非常に
残念です。
大森駅東口を出て、駅前広場から西友大森の角を右
に曲がって15分程行くと左手にあります。また、大森
銀座商店街の中を抜けて行くという方法もありますが、
こちらの方もだいたい同程度の時間で着けます。

酉の市写真
熊手の販売風景
クリックすると大きく見られます

馬込文士村

 今現在の大田区山王2丁目から4丁目,南馬込及
び中央界隈までを昔は馬込村という地名で呼ばれて
おりました。その地域には、明治後期から昭和初期
の頃にかけて文士や芸術家達が多く住んだことによ
り『馬込文士村』と呼ばれていました。
 大正元年芸術家を中心とした「大森丘の会」が発足
し開かれるようになりました。大正12には、関東大震
災の騒ぎが一段落してくると、世間では新しい風俗が
見られるようになり、ダンスホールができ、洋装のモダ
ンボーイ(モボ)や断髪姿のモダンガール(モガ)が現
れるようになり、大正14年には麻雀カフェーができ麻
雀がブームとなり、作家の広津和郎もメンバーの一人
でした。彼は馬込の自宅にも麻雀を持ち込み文士達
に伝授をしました。
 昭和に入り、初期の頃文学の世界は転換期を迎え
てきました。まだ若かった文士達にとっても将来に不
安の多い時代であったのです。麻雀に続いて面々が
凝り始めたのはダンスで、衣巻家のアトリエでは毎日
のようにダンスパーティーが開かれていました。参加
者には、萩原朔太郎夫婦,室生犀星,宇野千代や時
には川端康成夫人の姿もありました。
 昭和3年には、文士の間で相撲の話が持ち上がり
「大森相撲協会」が発足し、文士(力士)には四股名
をつけ番付表も作り、池上本門寺裏の空屋敷の庭に
土俵を作り相撲大会を開きました。ダンス流行の頃か
らやや退廃的なムードが漂っていて文士村は、住人
の入れ替わりがあり、ようやく落ち着きを取り戻しつつ
ありました。この頃になると、文士達の作品が認めら
れるようになってきました。
 この頃の事を石坂洋次郎は、「陽のあたる坂道」の
中でこの附近を舞台として書いています。
 また、三島由紀夫もこういう意味では文士村の住人
だったと言っても過言ではありません。実際に文士村
住人としても紹介されています。
 散策道となっている起伏に富んだ小道は、かつては
文士達が歩いた散歩道でもあります。文士たちの住
んでいた場所にはモニュメントが置かれ、彼らの足跡
を訪ねることができます。(モニュメントの無い文士の
方もいらっしゃいます)

馬込文士村散策のみち
馬込文士村散策のみち案内図
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